最近気になったことたち
最近気になっているが、1つのトピックとして書くほどでもないなあということをダイジェスト版でお送りしたい。
【腹痛いときに祈る神様】
腹痛時って切羽詰まってますよね。
俺の場合はまともな判断能力を保ってられないので世の中のすべてを片っ端から恨んだりしてしまいます。
それと同時に神様に祈りもします。
脳の容量を恨み:祈り=1:1に割り振るわけですね。器用です。
「神様、どうかこの腹痛を取り去ってください」
そう祈るわけですが、僕が祈る時と言えば腹痛時ぐらいなものなので、神様サイドも
「こいつ祈る時いっつもウンコしてんな」
とか思ってそうですし。
何がうれしくて俺の排便シーンを見せつけられにゃならんのやとお怒りになって天変地異でも起こされたら大変な話ですよ。
俺のウンコがきっかけで天変地異。
こまったこまった。
【外国人コメディアンの笑い待ちが気になる】
外国人のスタンドアップコメディーなんかを見ると、いかにもマイケルというような顔つきのコメディアンがボケた後に笑い待ちをしてるのがうかがえます。
日本ではボケの後にツッコミが来るので間断なく笑いにつながるのですが、外国にはツッコミの文化がないので完全に“待ち”の時間が生まれるわけですね。
音楽で言うところの休符です。
ただ待っているのではなくて自分のボケに自信あり!笑え!というようなどや顔をしているので個人的にはあの時間が苦痛だったりします。
笑うタイミングは自分で決めたい。
自分のボケで自信満々に笑い待ちできるような奴は居酒屋で何の迷いもなくシーザーサラダを頼みます。
【テスト用紙の点数のとこ折り返す奴が気になる】
高校の時によくいた、返却されたテストの点数の部分をだれにも見せまいと折り返してるやつ。
やましいものは隠したくなるのが人間の心理なのでテストの点数がやましかったのかな。
69点とかでしょたぶん。
自分の努力の結果がテストの点数なわけで、よくても悪くても堂々としてろよ!と内心半ギレだったのを覚えています。
なにより、テストの点数のところ折り返す奴は他人の点数をめっちゃ見ようとします。
自分の点数をひた隠しにするくせに、他人の点数をなんとかして知ろうとするんですね。
他人のことばっかり気にしやがって!もっと自分を大切にしろよ!
自分の点数の方が高いことを確認したら折り目をちょっと開くんでしょどうせ。
卑怯者ですわ。
このド畜生ども!来世でえらい目に遭え!
【前戯、どっからどこまでか気になる(下ネタ注意)】
セックスをぶちかますときに当然前戯をするわけですけど、あれってどっからどこまでが前戯と呼ばれる範囲なんですかね?
前戯=セックスの準備と捉えるなら、モテるために美容院行くのも前戯の範疇な気がします。
ホットペッパービューティーで美容院を選び、予約する行為はもはや前戯。
どの美容院に行こうか画面をスクロールしてる瞬間なんてスケベそのものでしょう。
※違います
というのは大げさとしても、女の子と会って、会話を始めたらそれはもはや前戯な気がします。
書いてて自分でもキショイなと思いますが、あくまで論理的に考えた結果です。
結婚を許してくださいが気になる
彼氏の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
普段ならすぐに崩してしまうであろう正座も足の痛みをこらえながら保っている。
横には不安そうな表情の彼女。
向かい側には彼女のご両親だ。
時計の秒針が時間を刻む音がよく聞こえるほどに部屋の中は静まり返っている。
しばらく続いた気まずい沈黙を彼氏の勇気ある一言が破った。
「お父さん」
「お前にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」
「娘さんとの結婚を許して下さい!」
「だめだ!」
「お願いします!」
「だめだと言ったらだめだ!」
ドラマなどでよくある結婚のあいさつのシーン。
現実でこんなコテコテな場面に遭遇することは珍しいと思うが、結婚の許しをえるためにあいさつに行くこのイベントは今でも日本各地で発生しているだろう。
俺は
結婚を許してください
が理解できない。
例えば結婚を考えているそのカップルのどちらもが未成年だった場合、または女性方が未成年だった場合はまだわかる。
未成年は自分の決断の責任を自分で終える能力がまだ備わっていないので、決断権を一部親にまかせる代わり、責任も負ってもらう。
いわゆる保護だ。
親の保護の対象からまだ脱していない者との結婚となれば、保護している親の決断が必要になるため、親に結婚を許可してもらわなければいけない。
それは分かる。
だがこの結婚を許してくださいのイベントは両者ともに成人であった場合も発生する。
責任を自分で負える成人になっていても、だ。
それは責任をすべて自分で負うにもかかわらず、決断の最後の一押し、イチバン大切なところを親に委ねることに他ならない。
結婚をした後、幸せになろうが不幸せになろうがその結果をすべて背負うのは自分なのに。
未成年の少年少女が決定権を親に委ねるのは、親がその結果を背負うからだ。
言わば、子供に関する決定はその責任を負うという意味で自分の決定でもある。
だがこの「結婚の許可」においては決定権を親に委ねる根拠となる、「責任を親が負う」という要素はまったく存在しない。
端的に言ってヤバイのだ。
あまりにヤバイ。ヤバすぎる。
結婚後不幸せになったとき、親が子供の不幸せをすべて担ってくれるのであればまだ理解できる。
「こんな結婚生活…お父さんとお母さんのせいだかんねッ!!」
「す、すまん…」
「本当にごめんねぇ」
だがこんなこと起こるはずがない。
結婚相手を決めたのはお前ぢゃん?
だからあーしらはどうなろうが関係ねえぢゃん?
でも結婚していいかどうかはあーしらが決めるかんね!!
暴論である。
暴論ぢゃん?
俺の中のギャルもそう言っている。
パねえ。パねえっす。
結婚の責任をまったく負わない存在であれば、道ゆくおっさんとかでもいいのだ。
道端で出会ったおっさんに対して
「僕たちの結婚を許してください!」
と言っているのと、構造的には同じだ。
結婚の許可なんて必要ないと思う。
プロポーズして、成功すれば、というかプロポーズしてなくてもお互い結婚を了承していれば市役所に行って婚姻届けをブチかましてハイ終了で良いと思う。
親には「僕たち結婚しました~」ぐらいのあいさつで良いんじゃないか。
結婚を“許してもらう”必要など全くない。
自分の人生の、自分の決断だから。
親の許可が必要だと勘違いしている大人はけっこう多い。
親がまったく責任を負わなくても、親の生活に自分の判断がまったく影響しなくても、親の判断がなければ決められないと勘違いしている人。
こういう人の多くは子供のころからなんでも判断を親に仰ぎすぎたんじゃないかなと個人的には考えている。
志望校を親が決めてしまう。
志望校をどこにすればいいか分からないから、親に決めてもらう。
こんな光景をバイト先の塾でよく見かける。
志望大学を親に決められてしまう彼らには往々にして判断能力が備わっていない。
小さいころから自分の考えでメリットデメリットや実現可能性、リスク等を考慮しながら選択する練習をしていないからだ。
塾に通うかどうか、スポーツクラブに入団するかどうか、果ては友達と遊んでいいかどうかも親が決めてしまい、親がリスクをすべて管理してしまう。
考える機会をすべて親が奪ってしまう。
そうすると子供はリスクを極端に恐れるようになり、決断を放り投げる。
決断を親に完全に任せることで、自分は責任を負わなくて済む状況を作るようになる。
こういう判断力・思考力が極端に欠如している生徒は受験に失敗する。
受験勉強には判断が常に付きまとうからだ。
どの参考書を使うのか、一日何時間勉強するのか、どの模試を受けるのかなどなど、状況をよく見て臨機応変に対応しなければいけない局面は毎日訪れる。
そういう子供が大人になってパートナーを見つけ、いざ結婚というときに
「結婚を許してください」
と言うんだろう。
そういう人って、そういう生き方で幸せなのかなとふと疑問に思ったりする。
うーーーん。
高校球児のあいさつが気になる
第101回目の甲子園が今年も熱闘の余韻を残したままその幕を閉じた。
例年通り今夏もワイドショーは連日甲子園の話題で持ちきりだった。
甲子園はもはやスイカ、風鈴に並ぶ夏の風物詩であり、日本国民には欠かせないものなのだろう。
普段野球をまったく見ないという人でも、汗をだらだら流しながら必死で投球し続けるピッチャーに胸を打たれるし、急に物知り顔で優勝校を予想したりする。
高校球児たちのまばゆい姿は誰にとっても等しく輝いて見えるものだ。
甲子園がなぜあんなにも感動的なのか。
ハイレベルなプレーのほかにも理由がある。
高校球児たちの立ち居振る舞いだ。
丸刈り姿にハキハキした行動、さわやかな笑顔、丁寧な言葉遣い。
高校球児たちの姿はまるで礼儀正しさが人間の皮をかぶったかのよう。
青春をすべて野球に捧げた青年たちの姿は俺たちが忘れてしまった何かを思い出させてくれる。
ただ一つ、高校生の頃から気になることがある。
“高校球児のあいさつが独特すぎる”ということだ。
一般の人が言う「こんにちは」は文字通り発音されるのだが、高校球児たちの「こんにちは」はひと味もふた味も違う。
高校球児たちの口から発せられる「こんにちは」を正しく記述するならば
ォンチャァァーーーッ!!(低音ボイス)
である。
念のため言っておくが、誇張やウソは全く含まず
ォンチャァァーーッ!!なのだ。
一言一句違わずォンチャァァーーッ。
だれが聞いてもォンチャァァーーッである。
ノンフィクション、いわばドキュメンタリーのォンチャァァーーッ。
本人たちはこんにちはと言っているつもりでも実際は
ォンチャァァーーッなのだ。
正真正銘のォンチャァァーーッ。
ォンチャァァーーッ。
なんとも味わい深い響きである。
「こんにちは」の域を完全に脱したニュースタイルのあいさつ。
あいさつひとつでコイツは野球部だ!と察知できるほどの強烈なアイデンティティ。
脱帽だ。
ほかの生徒たちが何気なくスルーする学校関係者や近隣住民のかたたちにも野球部員はあいさつする。
ただし、ォンチャァァーーッである。
向かいから歩いてくる学校関係者に対して体をきちんと正面に向けて足を止め、やや深めのおじぎをしながら大きな声であいさつ。
ォンチャァァーーッ!!(低音ボイス)
なんのこっちゃわからんのである。
ちなみにこの挨拶、下級生より上級生の方がォンチャァァーーッ度が高い。
入学して間もない1年生などは
「こんちゃーーース!」
というまだまだ「こんにちは」の体を保った挨拶をするが、学年が2年、3年と上がるたびにォンチャァァーーッに近づいていく。
年功序列のヒエラルキーは同時にォンチャァァーーッのヒエラルキーでもあるのだ。
「こんにちは」から派生して誕生したォンチャァァーーッは先輩から後輩へ、またその後輩からそのまた後輩へと受け継がれていく。
3年たってしまえば野球部はまったく新しいメンバーと入れ替わってしまう一方、先代たちが後輩へつないできたォンチャァァーーッのバトン。
脈々と受け継がれ、歴史をつくりあげるォンチャァァーーッ。
圧巻である。
ここまでいじりにいじっておいて何をいまさらと思われるかもしれないが、俺はこの野球部独特のあいさつが好きだ。
野球部独特のカルチャーみたいでイイ感じ(ほかに形容する言葉がみつからなかった)だし、そういう独自性はユニークだからだ。
ただ、この挨拶が礼儀正しいかどうかはまた別の話だと思う。
野球部は超礼儀ただしくてサイコーだよね。という風潮がある。
本当にそう思っているのだろうか?
ォンチャァァーーッをしている社会人は俺の周りにひとりもいない。
みんな「こんにちは」と発音しているし、正面を向いて足を止めている人もあまり見かけない。
もし本気でォンチャァァーーッの高校球児が礼儀正しいというのであればビジネスシーンでも積極的にォンチャァァーーッを活用すべきなのだ。
以下、ォンチャァァーーッ他様々な野球部のあいさつを活用したシミュレーション
Aさん「ォンチャァァーーッ!!」
Bさん「あ、どうもAさん。ォンチャァァーーッ!!」
A「Bさん先日はどうもァァッシャーーーー!!(ありがとうございました)」
B「こちらこそァァッシャ。うちの部下がご迷惑をおかけしたみたいでシャッセーーーーン!!(すみません)」
A「とんでもないです。今後ともぜひよろしくォンシャーーーーァスゥ!!(お願いします)」
B「ではシッッシャーース!!(失礼します)」
今日は以上です。
みなさんいつも読んでくれてァァッシャーーーー!!
「そんな人やったんやー」が気になる
俺はけっこう人見知り。
新しいクラスの友達たちはもちろんのこと、約5年一緒に住んでいない兄に対しても人見知りを発揮している。
やせた野良猫、生まれたての赤ん坊、育ての母親、すべて関係なく人見知れる自信がある。
かかってこんかい一般大衆。
ひとり余さず見知ってやるよ。
人見知りと一口に言っても実は全員同じ人見知りスタイルではなくて
全く喋れないタイプ、喋れるけど素が出せないタイプ、素を出してるようで変なキャラを演じてしまうタイプなどなど細かくカテゴリーを分けることができる。
俺は喋れるけど素が出せないタイプかつ、ちょっと別のキャラを演じてしまうタイプだ。
ふとした会話の際にお互いの第一印象を暴露しあうイベントが不定期で発生するが、そんな時によく言われる俺の第一印象が
クール
だ。
そう、俺はクールなのだ。
見かけ上は、だが。
ゆずソーダの濃度すらスルー出来ず、脳みそ中のニューロンを稼働させて濃度の一定化に全身全霊を注いでしまう俺も、よく知らない人からすれば
クール
なのだ。
英語表記にすれば
COOL。
クール。素晴らしい響きだ。
戦隊ヒーローで言えばブルー。
ナルトで言うところのサスケ。
極上の誉め言葉ではないか。
五臓六腑にクールの三文字が染み渡るゼ。
くぅーーー。
だが前述のとおり、俺はクールとは無縁の人間である。
いくらクールの皮をかぶっていても中身は劣化版オードリー若林。
仲良くなってしまえば化けの皮はすぐはがれる。
ボロボロボロ。塗装ははがれて本当の私がこんにちは。だ。
素が出始めるとき、よく言われることがある。
「そんな人やったんやー」だ。
例えばAさんという人がいて、俺と初めて会うとしよう。
Aさんは気さくに話す俺に対して一般大衆が思うように、クールな人だ、と思う。
だが実際はクールのクの字も持ち合わせない俺である。
当然仲良くなってくれば俺のクール像はガラガラと崩壊していくだろう。
この時、Aさんは俺に対して抱いていたクール像と素の俺にギャップが存在することに初めて気づく。ガッカリすることだってあるだろう。
そしていよいよこのセリフ。
「そんな人やったんやー」
俺はこの「そんな人やったんやー」を聞くたびにこう思う。
うるせえ。と。
今までの人生で数えきれないほど言われてきたが、毎回思っている。
うるせえ。と。
ライブでのコール&レスポンスかのように脳が自動的に反応する。
「そんな人やったんやー」と言われれば
うるせえ。と反応する。
何がそんなに気に入らないかと言えば、自分勝手に作り上げた“オレ像”を俺に押し付けてきている点だ。
正直、俺のことをだれがどう思おうとどうだっていい。
クールだと思おうが(これはちょっとうれしい)、あほだと思おうが、イタイやつだと思おうが好きにすればいい。
俺に対してどんな感想を抱くかは自由だ。
思想の自由万歳。
だが、それを俺に押し付けてくるとなれば話は別だ。
俺は誰かを喜ばせるために生きているわけじゃないので、誰かが俺に抱いた“こんな人っぽい”通りに自分を演じる必要はない。
うるせえ。とにかくうるせえが過ぎる。
こっちが「こんな人だと思ってください」と言ったわけでもないのに、さらに言えば勝手に自分の中でイメージを作り上げていただけなのに、俺がそのイメージ通りでなかったときにひとりで裏切られたような気持ちになりやがって、挙句の果てに「そんな人やったんやー」だ。
そんなことを言うぐらいなら黙って離れればいいのに。と思う。
そんな人やったんやーの背後には(ガッカリ)が透けて見える。
ガッカリしたなら去ればいい。
誰かに仲良くしろと強制されるわけでもないのに、なぜか目の前でガッカリし続けるのだ。
知らねえ。
マジで知らねえ。
手前が裏切られた気分になっているのも、俺の言動にガッカリしているのも、塩こうじのブームがいつの間にか過ぎ去ったのも、信号機のライトがLEDに取り換えられているのも、全部知らねえ。勝手にしてくれ。
その一言で俺が俺を軌道修正してクール路線に変更することを期待しているのかもしれないがそんなことは絶対にしない。
その程度の言葉で人を変えられるなんて思うなよ。
そんなことを言ってくる奴には呪いをかけることにしている。
お風呂のシャワーがなかなかお湯に切り替わらない呪いだ。
せいぜいお湯に切り替わるまで何もない空間を死んだ目で見続けるがいい。
生涯を終えるとき、走馬灯の中に風呂場で虚ろな目で無を見つめるシーンが紛れ込めばいい。
2カットぐらい紛れ込め。
バカたれが。
乳首が気になる
テレビ番組を放送している放送局各局は「放送コード」なるものを持っている。
国が規定しているものから、放送局が独自に設定しているものまで種類は様々なようで、納得のいくものからワケの分からんものまでピンキリだ。
個人的に納得できない放送コードがある
女性の乳首だ。
これは別に俺が女性の乳首を地上波で見たいがために納得できないとかそういう低次元な話ではないことを最初に断っておく。
言うなれば、これは哲学だ。
★
↑これが一体何かみなさんわかるだろうか。
答えは「世界丸見えに出てくる乳首を隠すための星」だ。
乳首隠し星(チクビカクシボシ)と呼ぶことにしよう。
このチクビカクシボシ、かなりお茶の間に浸透しているのではないだろうか。
老若男女、世界丸見えの★と言えば何?と問われれば、間髪入れず「チクビカクシボシ」と答えるはずだ。
俺たちの世代はこのチクビカクシボシやその他さまざまな記号で隠された乳首に慣れ親しんでいるが、一昔前は違ったらしい。
師曰はく、昔は乳首全見せが普通であったと。
ボロンボロン出ていたと。
ばいやややいーんだったと。
チクビカクシボシ世代には信じがたいことだ。
俺たちレぺゼンチクビカクシボシは星型で隠されたおっぱいを見てもドギマギしてしまうのに、星ですらない乳首が地上波放送の電波に乗ってブラウン管の向こうにお届けされていたとは。
お茶の間の空気は、一体全体どうなってしまうってんだい。
ところがどすこい。現代のテレビ番組はどうだ。
女性の乳首がそのありのままの姿をさらすことはない。
昔は“そこ”にあった乳首が、なぜ隠されることになったのか。
「乳首 隠す 理由 テレビ」「乳首 なぜ 放送コード」
様々なキーワードで検索をかけたが、これだと思えるような理由が出てこなかった。
もはや国家機密なんじゃね?と思えるレベルで答えが見当たらないのだ。
コンプラコンプラとテレビマンたちが叫び続ける今、いろんな表現が規制されているのを見るに、女性の乳首がなにかしらのコンプラに違反しているという判定を受けたのだろうが、ちょっと待ってほしい。
男の乳首、出とるやないかい。
バラエティー番組を見れば、やれ乳首に洗濯ばさみだの、やれ乳首相撲だの乳首のオンパレードだ。
乳首に次ぐ乳首。怒涛の乳首。乳首協奏曲。
乳首が狂喜乱舞してやがるよ~!!!
吉本新喜劇に出てくる例のギャグはその最たる例だろう。
座長・すっちーと吉田裕が繰り出す「乳首ドリル」である。
すっちーが吉田裕の乳首を棒でドリルしたりドリルしなかったりしているところに吉田裕が「すな。すな。すな。すんのかい。」「すんのかいおもたらせんのかい。」など言うあのギャグだ。
狂気の沙汰である。
男性の乳首が許されて女性の乳首が許されないってどういう判断基準?
と不思議に思っていたところ、この疑問を抱えている人は世界中にいるようだ。
歌手兼女優のマリーサイラスさんも女性の乳首だけが隠されなければいけないことに疑問を感じているようで、自身のインスタに「Free Nipples, Free Me(乳首を自由に、私を自由に)」と投稿している。
言うなれば彼女はそう、乳首解放軍である。
こうして女性サイドから乳首開放の動きが出てきている一方、見逃してはならない新たな風潮がある。
男性の乳首、隠した方がよくね?というもの。
Tシャツを着た男性の乳首が透けたり浮いたりすることにたいして多くの批判の意見が上がっている。
こういった意見を受けて、男性用のニップレスなるものが販売されているようだ。
この流れは明らかに前述の女性の乳首解放運動と真っ向から対立している。
女性の乳首を解放し、男性と同じ土俵に上がらせるのか。
それとも男性の乳首を禁ずることによって女性に合わせるのか。
この「乳首解放軍VS反乳首軍」の戦いから目が離せない。
ゆずソーダの濃度が気になる
ゆずソーダの底に沈んだ果肉が気になる
おしゃれなカフェ行くと必ずと言っていいほどあるメニュー。
「ゆずソーダ」。
オシャレ系のお店には必ずと言っていいほどあるメニュー。
ゆずを出すか出さへんか、話はそこからや。ぐらいの気概を感じる。
「よくかき混ぜてお召し上がりください。」
これは店員さんのパンチライン。
オシャレな店員さんに言われたからには混ぜますとも。
ゆずソーダは自家製の果肉入りジャムをソーダで割られた形で出てくる。
ジャムが底に沈んでしまうから、かき混ぜないとゆず濃度がてんでばらばらになってしまう。
ゆずソーダはかき混ぜるのが一番大切。これ、テストに出ます。
言われたとおりに混ぜてみるけど、これが混ざりにくいのなんのって。
ゼルダの伝説でリンクが使うビンみたいな形のグラスに、これでもかってほどの氷が詰まってる。
いやいやこんなん混ぜれるやついるん?何、いじわるですか~?
横方向にはこれでもかってほどクルクル回る。でも大切なのは縦方向。
水平方法じゃなくて垂直なんです。
じゃないと上のソーダほぼ100%層にゆずが到達せんでしょう。
がんばって氷に負けじとマドラーをくるくるするけど、氷に阻まれてぜんっぜん垂直方向に混ざらない。
メリーゴーランドばりの微妙な上下動を見せるゆずソーダにおじさんがっくりきました。
まあいけるとこまで混ぜてみよ。と思ってガシガシ混ぜてみるけど今度は炭酸がすごいシュワシュワなるやん。
ソーダで頼んだのに混ぜ終わるころただの水割りになってまうやん。
ソーダでゆずのジャムを割るからいいのであって、水で割るとなるとカルピスの方がいいやん。それは常識やん。
結局ほどほどに混ぜたところで飲み始める。
けど納得できる均一加減にはなってない。
やっぱり濃度を均一にして飲みたい。
抑えることのできない濃度へのこだわり。
上の方はソーダ成分ばっかりやし、底はほぼ100%ジャム。
ここで解決策。
ストローを上下動させながら飲めば濃度がストロー内で均一になるのでは!?
一休さんばりのアタマの回転。さすが中学の頃先生に天才と褒めたたえられていただけある。テニスもそこそこうまかった。
やってみると、確かに濃度はいい感じになる。
ただ冷静に考えてストロー上下させながら飲む姿、こっけいにもほどがある。
「あの人、濃度にこだわりすぎてる」
とか思われた日には。
なんてったってオシャレな店やから。
これは俺の偏見だが、オシャレな店にくるような人間はゆずソーダの濃度にこだわらない。
頼んだゆずソーダの濃度がぜんっぜん均一にならなくてもいやな顔一つせずに飲み干すはず。
だってそれがおしゃれだから。
濃度にこだわる姿勢はオシャレの対極。
まずそもそも濃度っていう言葉をゆずソーダに適用する時点でおしゃれじゃないから。
マクドであれば一心不乱に顔とストローを上下させながら濃度均一神になる。けどあいにくここはオシャレなカフェである。
そんなこと、恥ずかしくてできるはずもない。
そんなこんなで自分をなだめながら不均一なゆずソーダを着々と消費していく。
不均一ながら、ゆずソーダの力は偉大。柑橘類ならではのサッパリ感と適度な甘みが絶妙にマッチしてる。ゆずというワードだけで美味しい。ゆずって最初に言い始めた人、ほんまにありがとう。
でも、美味しい!ハッピー!では終わらせてくれないのがゆずソーダ。
ゆずソーダを飲み切ったとき、そこに現れるのは
グラスの底に残った大量のゆずピール。
このゆずピール
食べたい!!
ジャムに入っている果肉が世界で一番おいしいことは実証済み。
ゆずピールを食べずに店を出ることなんてできるはずがない。
ただこのゆずピール、一筋縄ではいきそうにない。
ゆずソーダのラストステージに待ち受けるその姿はまさにラスボス。
フリースタイルダンジョンで言うところのR-指定。
ひげもじゃもじゃおじさん。
韻ふみふみディスおじさん。
ゆずピールをラスボス足らしめているワケはそのサイズ感にある。
ドリンクについているストローより一回りか二回りほど大きいのだ。
単純に吸っても吸いきれないのは自明。
ここは馬力を上げていくゼ。
ストローをゆずピールに密着させる。
ぐっと腹に力を込め、一気に吸う!
ズズッ。
その鈍い音とは裏腹に、ゆずピールは口に到達していない。
見ると、ストローの中間地点ぐらいで詰まった模様。
ゆずピールのそのあまりに大きすぎる体躯がストローのキャパシティーを完全に超えてしまっている。
これはもう気持ちでどうこうできる話ではない。
タピオカぐらいのストロー用意しといてよ~。ってな感じである。
吸い上げるのはあきらめた。
でも、ゆずピールのことは諦められない。
次に考えた作戦はこうだ。
ストローの先端部分をゆずピールに引っ掛け、口まで運ぶ。
幸いゆずピールは長細い形をしていて、その中腹部分にストローを引っ掛けることができそうなのだ。
俺はストローを利き手に持ち替えた。
ストローの先端でグラスに残った氷をかき分けながら、ゆずピールの根城にストローを進める。
ついにゆずピールの中腹をストローが捉えたッ!
いける。ついにゆずピールを食べられる。
だが、ストローは動かない。
俺の気持ちとは裏腹に、俺の左手はストローを口元に運ぼうとしない。
なぜか。答えは単純明快。
お店がおしゃれだから。
お店がおしゃれで、おしゃれな人間ばかりに囲まれているからだ。
そんなシチュエーションで、底に沈んだゆずの果肉を必死に食べようとする23歳男性滋賀県生まれヒップホップ育ちの姿を見せてみろ。(1回言ってみたかっただけで、本当はヒップホップと無縁の生活)
笑われるぞ。
だいたいこの23年間、周りの目と自我とのはざまで悩み続けてきた人生。
おしゃれなカフェでゆずピールをむさぼれるような性格ならこんなブログはハナから書いてないわけで。
いや、わかってるんです。
別に周りの人、そこまで俺のこと見てないし。
なんなら自前の溶け込み力で背景の一部になってるぐらい、空気と一体化してるし。
フライングダッチマン号の一部になってしまったブーツストラップビルぐらい一体化してるし。
俺がゆずを貪り食おうがケツを晒そうが、店にいるオシャレな人たちは気にしてないはず。
でも、できない。
俺の積み上げてきた23年間がそれを許さないのである。
ゆずピールを引っ掛けたストローが重い。
その重みはゆずピールの重みだけじゃなく、自分が生きてきた23年間の重みでもある。
ストローをおき、店を出た。
日本の夏とくゆうのじめっとした空気が肌を覆う。
雲間に太陽の光がさしていた。
何かが変わる24年目を祈っていた。
うるせぇ~占いのコーナー
我が家では朝、だれが見てるでもないテレビのニュース番組をつけてる。
日本で起こったもろもろの事件に興味があるわけではなくて、左上隅っこの方に表示されてる7:37だの8:25だのという時刻を確認するためにつけているだけだ。
我が家の時計はなぜかどれもズレてる。まっとうな時刻を知る方法はスマートフォンかテレビのニュース番組しかない。
朝は目がこまかいこまかい字を受け付けないので、当然のごとくテレビの出番。
最近のニュース番組ってなぜかバラエティー番組みたいですよね。
アナウンサーたちがやたらとボケたりツッコんだり。
あなたたちがキャッキャウフフしているさまを見たいと思ってる国民、いないと思うんですけど、と思っている。
お茶の間のしらけたフンイキをよそに、番組は進行する。
どこの誰の犬ともわからないような犬が近所のおっさんになでられて狂喜乱舞する様を死んだ魚のような目で眺めれば、やってくるのはそう。
運勢占いのコーナー
だ。
どこの誰ともわからないような占い師が水晶玉かタロットカードか俺らの想像が及ばないナニカを駆使して考え出したみんなの運勢を紹介するコーナー。
占いにはいろいろなタイプがあって、血液型ごとに紹介されるものから星座ごとのものもある。
血液型なら4つだけで済むが、星座となると12コも占わなければいけないことになる。
占いのシステムは知らないが、占いパワーみたいなものが尽きたりしないのだろうか。
パズドラみたいな感覚で数分に一回占いにチャレンジできるようなシステムなのだろうか。
どこかのニュース番組は、血液型占いの発表にアソビ心を取り入れて、アニメーションかなにかでそれぞれの血液型を代表させたキャラクターを競争させ、その順位を運勢の順位として発表している。
いやなにをやってくれとるんだよ。
こちとら一日の中で一番あわただしい朝という時間をすごしております。ちなみに朝という概念はご存じでしょうか。と真面目に抗議したい。
占いの結果はもうすでに出ているのだから、ばばんと出してしまいなさいよと。
ただでさえ時間がない朝にレース形式でみせられて、アニメーションの変なキャラクターが走ったりつまずいたりするのを浜辺に打ち上げられたマンボウのような目で見なければいけない。
たぬきが疾走するのを見ているばあいではなくて、駅に向かって自分が走り出さなければいけないのにも関わらず。だ。
よし、話を星座占いタイプの占いにうつそう。
さすがに12体のキャラクターを用意してよーいドン!なんてあほな番組はない。
上から順番に紹介して、今日あなたにおこりそうなエトセトラをアナウンサーが明快かつさわやかさをたっぷり含んだ声で読み上げていく形式だ。
12個あるので自分の星座が発表されるまで時間がかかる場合はあるが、レースを見せられるよりはましだ。
ここには急加速するうさぎも、あとすこしのところでコケてしまうたぬきも出てこない。
1位から順に発表されていく星座はついに一けた台を負え、10位11位と続く。
そして12位に差し掛かったその時だ。
「ごめんなさい、12位は獅子座のあなた」
うっさいんじゃぼけが
うるせー。めちゃくちゃうるせー。
どこの水晶玉から飛び出したかもわからない占いの結果を押し付けられ、挙句の果てには「ごめんなさい」。
うるせえ~。
「おとことしては見れへんナア、ごめん」と急にふっかけてくる飲み会の時のおんなぐらい理不尽だ。
同じぐらいやかましい。
家に帰った後、カベに向かってひとりでぼそぼそ言っとけばいいそんなことは。
知らんのだ。知ったこっちゃあない。占いの結果なんて。まーじで気にしたことがない。
なので何位だろうがノーダメージ。
にも関わらず。謝られることによってなんかガチになる。
謝らないで~。
ガチで俺が今日1日ザンネンな人みたいになる。
しかも
ごめんなさい、12位は獅子座のあなた
の「ごめんなさい」は
厳密に表記するならば
ごめんなさぁ~~い(煽)
だ。
それまでハキハキ社会情勢を国民につたえていたアナウンサーが急に
ごめんなさぁ~~い
である。
余計にうるせ~。
空っぽ。謝罪のなかみ、空っぽだ。
本来つまっているべき謝罪の意思の代わりに鈴カステラでもつまっているのではなかろうか。すっからかんなのである。
もし将来的にアナウンサーになる人、もしくは占い師になる人がいたらお願いしたい。
最下位を発表するときは毅然とした態度でのぞんでください。
ごめんなさぁ~~いって言うぐらいなら
12位ィ獅子座ァ!死ぬぜェ!?!?!?!?
くらいの意気を込めてバッチバチにキメてください。
それぐらいで来られたらこちらとしても
アァん!?ラッキーアイテムよこせやコラ…
とでも言えよう。
話の着地点がわからなくなったので今回はこれでおしまい。