「そんな人やったんやー」が気になる
俺はけっこう人見知り。
新しいクラスの友達たちはもちろんのこと、約5年一緒に住んでいない兄に対しても人見知りを発揮している。
やせた野良猫、生まれたての赤ん坊、育ての母親、すべて関係なく人見知れる自信がある。
かかってこんかい一般大衆。
ひとり余さず見知ってやるよ。
人見知りと一口に言っても実は全員同じ人見知りスタイルではなくて
全く喋れないタイプ、喋れるけど素が出せないタイプ、素を出してるようで変なキャラを演じてしまうタイプなどなど細かくカテゴリーを分けることができる。
俺は喋れるけど素が出せないタイプかつ、ちょっと別のキャラを演じてしまうタイプだ。
ふとした会話の際にお互いの第一印象を暴露しあうイベントが不定期で発生するが、そんな時によく言われる俺の第一印象が
クール
だ。
そう、俺はクールなのだ。
見かけ上は、だが。
ゆずソーダの濃度すらスルー出来ず、脳みそ中のニューロンを稼働させて濃度の一定化に全身全霊を注いでしまう俺も、よく知らない人からすれば
クール
なのだ。
英語表記にすれば
COOL。
クール。素晴らしい響きだ。
戦隊ヒーローで言えばブルー。
ナルトで言うところのサスケ。
極上の誉め言葉ではないか。
五臓六腑にクールの三文字が染み渡るゼ。
くぅーーー。
だが前述のとおり、俺はクールとは無縁の人間である。
いくらクールの皮をかぶっていても中身は劣化版オードリー若林。
仲良くなってしまえば化けの皮はすぐはがれる。
ボロボロボロ。塗装ははがれて本当の私がこんにちは。だ。
素が出始めるとき、よく言われることがある。
「そんな人やったんやー」だ。
例えばAさんという人がいて、俺と初めて会うとしよう。
Aさんは気さくに話す俺に対して一般大衆が思うように、クールな人だ、と思う。
だが実際はクールのクの字も持ち合わせない俺である。
当然仲良くなってくれば俺のクール像はガラガラと崩壊していくだろう。
この時、Aさんは俺に対して抱いていたクール像と素の俺にギャップが存在することに初めて気づく。ガッカリすることだってあるだろう。
そしていよいよこのセリフ。
「そんな人やったんやー」
俺はこの「そんな人やったんやー」を聞くたびにこう思う。
うるせえ。と。
今までの人生で数えきれないほど言われてきたが、毎回思っている。
うるせえ。と。
ライブでのコール&レスポンスかのように脳が自動的に反応する。
「そんな人やったんやー」と言われれば
うるせえ。と反応する。
何がそんなに気に入らないかと言えば、自分勝手に作り上げた“オレ像”を俺に押し付けてきている点だ。
正直、俺のことをだれがどう思おうとどうだっていい。
クールだと思おうが(これはちょっとうれしい)、あほだと思おうが、イタイやつだと思おうが好きにすればいい。
俺に対してどんな感想を抱くかは自由だ。
思想の自由万歳。
だが、それを俺に押し付けてくるとなれば話は別だ。
俺は誰かを喜ばせるために生きているわけじゃないので、誰かが俺に抱いた“こんな人っぽい”通りに自分を演じる必要はない。
うるせえ。とにかくうるせえが過ぎる。
こっちが「こんな人だと思ってください」と言ったわけでもないのに、さらに言えば勝手に自分の中でイメージを作り上げていただけなのに、俺がそのイメージ通りでなかったときにひとりで裏切られたような気持ちになりやがって、挙句の果てに「そんな人やったんやー」だ。
そんなことを言うぐらいなら黙って離れればいいのに。と思う。
そんな人やったんやーの背後には(ガッカリ)が透けて見える。
ガッカリしたなら去ればいい。
誰かに仲良くしろと強制されるわけでもないのに、なぜか目の前でガッカリし続けるのだ。
知らねえ。
マジで知らねえ。
手前が裏切られた気分になっているのも、俺の言動にガッカリしているのも、塩こうじのブームがいつの間にか過ぎ去ったのも、信号機のライトがLEDに取り換えられているのも、全部知らねえ。勝手にしてくれ。
その一言で俺が俺を軌道修正してクール路線に変更することを期待しているのかもしれないがそんなことは絶対にしない。
その程度の言葉で人を変えられるなんて思うなよ。
そんなことを言ってくる奴には呪いをかけることにしている。
お風呂のシャワーがなかなかお湯に切り替わらない呪いだ。
せいぜいお湯に切り替わるまで何もない空間を死んだ目で見続けるがいい。
生涯を終えるとき、走馬灯の中に風呂場で虚ろな目で無を見つめるシーンが紛れ込めばいい。
2カットぐらい紛れ込め。
バカたれが。