ちょっと気になるブログ

人生は気になったりならなかったりの連続

「みんな我慢してるから」が気になる

 

たとえば無駄に思われる学校の行事ごとに参加するのを渋って、

「みんなも我慢してるからあなたも行きなさい」

と説得されたとき。

 

たとえば部活中の非効率的なトレーニングをしたくないと言って

「みんなしたくないけど頑張ってるねん」

と納得させられた時。

 

 

みんなはなんで我慢してるんやろう

みんなはなんで嫌々ながらも頑張れるんやろう

そう思わずにいられなかった。

 

 

なんでみんなが我慢してるからという理由で俺も一緒に我慢しなければいけないのか理解できなかった。

 

別にそれぞれが違う人間なのだから、他人の行動に自分が縛られる理由はないんちゃうかと。

 

「オレら、ズッ友だかんな!」と言葉を交わすような青臭い中学生の思春期ボーイなら、友達が辛いことに我慢しているなら俺も我慢するゼ。なんてことを考えても不思議じゃない。

なんなら同じように悲しみを共有しない人に対して攻撃的な姿勢を取ることだってあり得る。

 

 

中学生はルフィぐらい友達を大切にする。

中学生にとっての世の中はまさにグランドライン。

船員以外は敵ばかりの大海原。

 

 

俺は確かにまだまだ青臭いし中2マインドを捨てきれていない。

けど俺はいくら友達とはいえ自分とは関係ない何かに我慢できるようなボランティア精神を持ち合わせてはいない。

 

自分は自分で、他人は他人だ。

 

 

そもそも、なぜ「みんな」は特定の状況に対して我慢しているんだろう。

「みんな」が我慢しなければいけないような、だれも得しないような状況なら、それこそ「みんな」で我慢することをやめてしまえばいいと思う。

 

なに?ドM?我慢大会?

変態大運動会ですか?

 

なんで俺が理不尽に不特定多数のSMプレイに巻き込まれないかんのや。

いくらドMとはいえ、自分の思う角度と違う方向からSっ気が来ると引いてしまう。

SMは各人合意の上で、互いのことを考えながらするのがいいのであって、無理やり巻き込まれてしまえばそれはただの暴行じゃないのか。知らんけど。

そんな身勝手なSMはよそでやってくれ。と切に願う。

 

 

もし不特定多数の「みんな」さんが辛い思いをしているのであれば、状況を改善しようとするのが最善策だ。

なんでそろいもそろって我慢してるねんと。

 

 

「みんな」を説得材料に使うやつにロクな奴はいない。

自分の力だけでは説得しきれないことがわかっていて、同調圧力でひとを動かそうとするところが究極にダサい。

人間はひとりになることに対して恐怖を感じるようになっていると思う。その恐怖につけこむのは卑怯だと思う。

 

 

そういう、「みんな」が大好きな人っていうのは一番ひとりになるのを怖がってるのかなとも思う。

ひとりが怖いあまりに、同調圧力で人を縛ろうとして「みんな」を集めようとしてるのかな。と。

 

ロクな奴はいないと書いたけど、憎むべき人間でもないと思う。

 

そもそも、別に大衆を行動を共にしようとすることは悪いことじゃないし。

その方が楽しいならそうすべき。

 

ただ、「みんな」を理由に行動したくないって人がいるのもまた事実なので、みんなの価値観を大切にしながら生きていけたらいいな。

 

 

と、敷かれたレールの上をみんなと走る大学生が考えている。

後輩のラジオ番組を聞いた

同じ高校出身の後輩がディレクターを務めたラジオ番組を聞いた。

後輩とはいえ、焼きそばパンを買いに行かせたことも喋ったこともないのだからほとんど他人である。

後輩の定義域の広さよ。

 

番組名は

802 BINTANG GARDEN

いちごの唄~ラジオから流れる恋と退屈と銀杏BOYZ

 

番組公式ホームページを見ると、この番組は現在上映中の「いちごの唄」のプロモーション番組風に紹介されていたが、俺は違うと思う。

 

何を隠そうこの番組、銀杏BOYZボーカル、峯田和伸への愛がにじみ出ている。

峯田さん大好き感オーラ全開番組。

 

誤解を恐れずに言えば

ディレクターこれ、職権乱用してんなア!

という印象。

 

映画のプロモーションしますんで!という体で大好きな峯田さんを特集してる感満載なのだ。

映画の製作にも多分に峯田さんが関わっているということを加味しても、峯田さんを掘りに掘って深掘りすんぞという番組展開。

映画を切り口にトークテーマは峯田さんから離れない。

ゴール下でピポットを踏み続けるバスケ部員のように、軸足はずっとブレずに峯田さんなのである。

 

ディレクターのやりたいことやってんなア!

である。

 

比率にすれば

峯田さんの話:映画の話=7:3

ぐらいだろうか。

でもたぶん、黄金比だと思う。

 

パナソニックのトラックから覗き見たエプロン姿のさとみちゃんがドッペルゲンガーだった話を、「わっけわっかんねーわ俺の初恋」とオとす峯田さん。

 

七夕のお願いを聞かれて、友達と会いたいと答えた後に「世界平和」と答えなおす峯田さん。

 

学生時代にニルヴァーナsmells like teen spiritを聞いた時、教室のみんなとは違うところに来てしまったと悲しくなった峯田さん

 

ステージに上がる瞬間の映像を一つ一つ言葉にしていきながら、世界とつながれる瞬間がステージだと語る峯田さん。

 

夏にやりたいことを聞かれて、ベタですけどと前置きをしてから

「手をつないで花火を見に行くとか」と答える峯田さん。

 

どこを切り取っても峯田さんの人柄が表れていたいい番組だった。

ディレクターの峯田さん好き好き感に感化されて、リスナーもおもわず峯田さんちゅきちゅきになってしまうような番組だった。

峯田さん大好きゆえの暴走か、緻密な計算かはわからないが、峯田さんの魅力を全力でリスナーに伝えに行く番組構成は、普通にプロモーションする5億倍、リスナーの心に何かが残ったと思う。(上から目線に聞こえたらすみません。ただ、先輩なもので。)

 

 

なにより、うらやましかった。その一言に尽きる。

正直番組の内容どうこうよりもその感想の方が強い。

うらやましかった。

自分の好きなものを全力で形にしているその姿が。

実際に頑張っている姿を見たわけではないけど(冒頭でも述べた通りマジで面識は0に近い)好きを形にしようと奔走している感じがとにかくうらやましかった。

映画のセリフを借りていうなれば、世界に勝ってんなーって。

 

 

いやーとにかくいいもの見せてもらいました。(学際の後のOB感)

 

 

ただエンディングの方のエレベーターのたとえ話の時にパーソナリティの女性が言った「なるほど」という相槌には思わずほんまにわかってんのかよとツッコんだ。

あのたとえ話はまじでわからんかった。

それもよかった。

吉田美和が気になる

 

みなさんはドリカムの名曲「何度でも」をご存じだろうか。

ZARD「負けないで」ぐらいテレビに重宝されている稀代の応援ソングである。

 

というかそもそも「名曲」の概念をご存じだろうか。

私はさすがに高学歴なので知っているが。

 

 

この曲が好きな人、多いんじゃないですかね。

ランニングの時に聞く曲リストとかに入れてるベタな人は相当数いるはずだ。

 

この曲の何がいいってやっぱり歌詞ですよね。

吉田美和が作詞したこの曲の歌詞はこれまで多くの日本人を励ましてきた。

 

 

「10000回だめで へとへとになっても 10001回目は何か変わるかもしれない」

 

 

しみますね。

なんかこう、グッときますよね。

 

 

こないだテレビで流れているのを聞いて、ああいい歌詞やなあと思っていた。

が、しかし。

 

 

いや10000回て~!!

 

 

い、10000回ダメって~!!!!

である。

 

 

今回の気になるポイントはここ。

 

この歌詞の親戚的存在に

「三度目の正直」

ということわざが存在する。

 

ことわざですら三回。

吉田美和ときたら10001回目まで頑張れよと発破をかけているのだ。

もはや厳しいとかスパルタとか言えるレベルをはるかに超えてしまっている。

どんな育ち方をすればこの域に到達するのだろうか。

星一徹に育てられたのかな。

 

歌詞をもう一度見てみよう。

10000回だめで へとへとになっても 10001回目は何か変わるかもしれない

野蛮。

 

10000回って。(笑)

もはや(笑)ですよこれは。

 

 

誰かを応援する側として、10000回まで挑戦してる姿を見てしまえばいけるとこまで行ってほしいと思ってしまうのかもしれないけど。

さすがにそんな何回も何回も同じことに挑戦している人に対して

「もうやめといたら?」

とは言えないのかもしれないけれども。

 

 

たぶん、5000回ぐらいからもう引っ込みがつかなくなっちゃったのかな。

何回やってもうまくいかず、もう半ばヤケクソなのかな。

端的に言って自暴自棄。

 

 

シンプルにかわいそうである。

周りの人も100回を超えたぐらいからドン引きしてると思うが、10000回までいかれたらさすがに応援せざるを得なくなりそうではある。

相手はひたむきに10000回失敗できる狂人である。

触らぬ神に祟りなし。

 

 

さらにこの歌詞で気になるのは

 

10001回目は

“何か変わるかもしれない”

 

の部分。

 

その応援のしかた何~!?

もはや成功するとは思えなくなってんじゃねーか。というね。

 

 

何か変わるかもしれないって。

いや何かって。

 

 

10000回失敗した人をもっかい頑張らせるための応援文句が

 

 

次は何か変わるかもしれへんやん!

 

鬼畜の所業である。

 

10001回目のモチベーションとしてそれはさすがにナメすぎな気がする。

 

何か変わるかもしれないからやってみよ~

は1ケタ台の挑戦数のときのやつである。

 

 

気持ちはわかる。

相手はすでに10000回失敗してるわけで、次の1回でうまくいく可能性は極めて低いのかもしれない。

でも、それでも、次はうまくいくよ!って言ってあげて~!!

諦めないで~!!

 

 

私が何かに打ち込むとしても10000回に耐えられる自信はない。

恐らく100数回目の時点でモチベーションのすべてを失い、1000回台に到達するころには自我を失っているだろう。

 

自我を失った私はもはや呼吸をしながらそれに挑戦する有機物に成り果て、悟りの境地に至る。

 

黒目がこの世の何よりも真っ黒になった私は宇宙と一体化し、ニルヴァーナへ。

仏陀もびっくりの悟りっぷりである。

 

悟りを開くかどうかなんてレベルでは収まらず、もはやガン開いているだろう。

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開いてるイメージ

パッカーーーーん

である。

 

つまり、ドリカムの「何度でも」を忠実に再現すれば悟りの境地に至れるということである。

なんとありがたいことか。

空海もびっくりな修行法。ダイナミック。

 

そういう意味ではJpop界のお経的存在と言えるだろう。

お経JPOPという新ジャンル。

お教界のニューウェーブ!(お笑い界のニューウェーブ陣内智則

 

 

話が迷子になってしまったが、結論に向かおう。

 

アーティストというのは想像力に満ち満ちている。

おそらく吉田美和も、この歌詞を書く際

ひたむきに何かに打ち込む誰か

を明確に想像したはずだ。

そして想像はさらにドライブしていく。

そのひたむきな人が何かに10000回失敗したとすれば・・・?

大喜利の問題でありそう。

そこまで想像を膨らませた吉田美和はきっと考えた。

10000回失敗するようなヤベエ奴、本当はドン引きだけど応援せざるを得ない~。

でも次で成功するよ!なんて軽薄なことは言えないから、次のチャレンジで何か変わるかもって言っとこ~っと。

である。

恐らくこれぐらい思慮を巡らせて書いていたはず。

※勝手な想像です

 

 

想像力を存分に生かせば名曲を生み出せるかもしれないということ。

学校に乗り込んできたテロリストをせん滅するという妄想に中高生のとき取りつかれていた私には無限の可能性がある。

不意におっきい声出すこどもが気になる

子供って不意にめちゃくちゃデカい声出しません?

 

子供の出す騒音はハッピーノイズなんてめでたい名前で呼ばれているらしい。

端的に言ってハッピーとは思えない。

これを考えた奴のアタマがハッピーである。

騒音は騒音なのだ。

聞いたところでハッピーにもラッキーにも思えるはずがない。

 

つまるところ音なんてものは空気の振動なのであって、彼女の服フルートの音色も、おじさんの異様にデカいくしゃみの音も、俺の歌声もジャスティンビーバーの歌声も本質的には同じである。

どちらもただ、空気が揺れて耳の中に入ってきてそれがうずまき管を通ってエトセトラなわけだ。

 

ジャスティンビーバーが世界中に向け「What do you mean?」つまり「どういう意味?」と問いかけている。

こちらが聞きたい。

どういう意味?ってリズムに乗せて歌になんかしちゃって。

MVまで作って何がしたいねんと。

 

一方の私はというと日常で起こる些細な出来事やこまかい物事の違和感を飲み込めずにこんなブログを書いているのだから不平等極まりない。

一日駅長ならぬ一日ジャスティンビーバーを作って、適当に「どういう意味ですか~?」なんて問いかけてみたいもんである。

 

話を本筋に戻そう。

別に私はこの“ハッピーノイズ”が嫌いなわけではない。

断じて嫌いなわけではない。

ここは重ねて言っておかなければ、子供の騒音に目くじらを立てるヤバい大人の仲間入りを果たしてしまう。

ただ単純に、なんであんなにおっきい声出すんですか?

という疑問を抱えているだけである。

 

体のサイズと声の大きさは比例するだろう。

こどものサイズ感であのバカでかい声を出すには相当体力を使うはずである。

省エネ全盛時代になんてことをしているんだろう。

 

ヒントを探るために自分の経験を振り返ってみよう。

私自身もこれまで大声を張り上げながら生きてきた。

というか、つい最近まで大声を出しつ出されつの関係の中で生きてきた。

部活動である。

 

私が所属していたソフトテニス部、もといソフトテニスという競技は、ともすればおとなしそうなイメージを持たれている。

ところがどっこい。

ソフトテニスの試合は実質声出し合戦の様相を呈しているのである。

 

 

アアアァァァアアァァイイ!!!

ヨッシャアアアアアア!!!

コイヤァァァアアアアアア!!

 

 

声が途切れることはない。

プレーヤーがもし試合中に声を切らそうものなら、監督席や応援席から

「声出せ~!」

という謎のアドバイスが入る。

当時は私自身めちゃくちゃ声を出していたし、声を出していないプレーヤーに

「声出せよ~」

という謎のアドバイスをしていたわけだが、声を出すことが良いプレーにどう繋がるのかは全くのミステリーである。

全く因果関係はわからないが、声を出すことが良いことだと思っていた。

声を出さないチームメイトがいれば憤慨し、ゲキを飛ばしていた。

今風に言えばアタオカである。

今では意味が分からないこのアドバイスも、当時は当たり前のものだと思っていた。

常識とは非常に恐ろしいものだ。

 

ちなみに、ソフトテニスがおとなしいスポーツと思われがちなのは理由がある。

クラスの中でも非常に地味なキャラクターの生徒たちがこぞってソフトテニス部に所属するからである。

 

部活ごとにいろいろなイメージがある。

サッカー部はさわやか系もしくはチャラいやつが多い。

野球部は面白いけどストイック。

そして、ソフトテニス部はおとなしい、陰キャ、暗い、カビ、etcである。

残念なことにこのイメージはほぼほぼ実態をよくとらえている。

ソフトテニス部は暗いやつが多い。

 

ただ競技の性質上、試合中に声を切らすことはあってはならないので、みんな声を張り上げるのだ。

クラスでは全く一言もしゃべらない彼も、文化祭の準備期間に一度も女子と会話することがなかった彼も、ひとたび試合になれば

 

 

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写真に悪意はありません

アアアァァァアアァァイイ!!!!

である。

狂気の沙汰以外のなにものでもない。

 

クラスではまったく存在感のない彼らがコート中を駆け回り、やわっこいボールをラケットでおもいっきりシバいた末に大声を出す様は圧巻である。

へたな絶景をみるよりよっぽど人生観が変わりそうな光景だ。

 

陰キャの彼が声を出さなくなってしまえば別の陰キャの彼が

声出せよ!とマジギレする。

その声を受けて陰キャの彼は

 

 

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まじで悪意はありません

アアアァァァアアァァイイ!!!

である。

 

マッドサイエンティストならぬマッドスポーツである。

ちなみに私はこのマッドスポーツ、ソフトテニスをオリンピック種目にしたいと考えています!と電通の面接の際、面接官に言い放ったのである。

秒で落ちた。

 

もはや子供が大きい声を出すどうこうはどうでもよくなってきた。

テンションとか上がっちゃうんやろ。たぶん。

逆にテンションを上げるために出してるっていうのもありえる。

正直本当にどっちでもいい。

 

そんなことより今は、マッドスポーツ、ソフトテニスに中高の青春を捧げてしまったことに茫然自失である。

 

サッカーやっときゃよかった~。

 

ソフトテニスもいいスポーツですけどね。

適量が気になる

昨日ツイッターでこのブログを公表したところ、数人の友人たちから反応があった。

全く読まれなければ寂しいくせに、実際に読まれていると思うとなかなか恥ずかしい。

あまり自分の考え方を口にする方ではないので、こういった形で自分が普段考えていることを世間に大っぴらにするのは少し抵抗があるのだ。


私からすればブログを見られることは、ケツを見られることと同じくらい恥ずかしい。

 

つまり私の中ではこういう等式が成り立つ。

 

ブログを見られること=ケツを見られること

 

高校数学にならってこの等式を(を見られること)でくくってみよう。

 

ブログ(を見られること)=ケツ(を見られること)

 

さらに両辺を共通項(を見られること)で割る。

 

ブログ=ケツ

 

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驚き

ッッッッ!!!

 

驚きの結論が出た。

つまり、私にとってこのブログはケツなのである。


なんのこっちゃとお思いかもしれないが、等式がそれを証明してしまっている。

現実は実感と乖離していることがある。現実を受け入れよう。

 

このブログは私のケツです。

 

急にめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。

 

だが、ここでめげてはいけない。

今年で23歳になるのだから。

これまでできなかったことにどんどん挑戦していく所存だ。

なので、もっともっとたくさんの人にこのブログを広め、見てもらいたい。

 

つまり、もっともっとたくさんの人に私のケツを見てもらいたい。

よく見てください。私のケツを。

さあ、遠慮なく。

 

みなさんは現在私のケツを見ている。

なんのこっちゃとお思いの方もいるかもしれないが、等式がそれを証明している。

現実は実感と乖離していることがある。

現実を受け止めよう。

 

私のケツを存分に愛でてください。

 


念のため申し上げるが、こんな風に育ってしまったのは私のせいではなく、両親のせいだ。

私は真っ当に生きてきたはずだが、真っ当とは時に狂気になりうる。

 

さあ、本題に移ろう。

 

ある昼下がり。大学の授業がなかった月曜日のこと。

家でダラダラとテレビを見ていると馴染みのあるテーマソングと共にキューピー3分クッキングが始まった。

 

あの狂気的なオープニングにはいつも釘づけにされる。

全裸のキューピーちゃんが突如としてテレビに現れ、軽快な音楽に合わせて腕を上げたりおろしたり、リズミカルに移動する。

何を見せられているのだろう。

まずそもそもキューピーちゃんはなぜ全裸なのか。

分からないことが多すぎる。

なんにせよキューピーちゃんの独壇場である。

キューピーちゃんがフロアを支配する。

キューピーちゃんが曲の最後に決めポーズをとれば、オーディエンスの我々もブチ上げ不可避といったところか。

 

キューピーちゃんの前座を受けていよいよクッキングがスタートする。

なるほど今回は「ズッキーニメンチ」なるものの作り方レクチャーのようだ。

料理家らしき女性が手際よくズッキーニを切ったりメンチをこねたりする傍ら、アナウンサーが材料を紹介していく。

 

ズッキーニが2本。合い挽き肉は300グラム。

作る気などさらさらない私だが、3分クッキングを視聴するものの矜持として材料を自分の中で反芻する。

ふむふむ。ズッキーニ2本に合い挽き肉は300グラムか。

 

次の瞬間、自分の耳を疑った。

アナウンサー「塩、こしょう少々と小麦粉、適量です。」

 

し、少々!?

て、て、適量!?

 

ココです。長らくお待たせしました。

気になることを取り上げて記事にするブログであることをお忘れかもしれません。

しかし、このブログは私のケツ鑑賞のためではなく、私が気になったことをつらつらと書き連ねるためのブログなわけです。

思い出せよ。趣旨を。

 

 

料理番組でよくある

少々

だの

適量

といった曖昧な言葉が気になる。

 

少々ってどこからどこまでが少々なのか。

5万歩譲って少々を許せたとしても

適量だけは許せない。

 

「適量」…ほどよい分量。適度の量。

 

番組プロデューサーは、なぜ人が料理番組を見るか理解しているのであろうか。

おばさんたちが手際よく料理をこなす様を鑑賞するためでも、もこみちがオリーブオイルを異常に使うさまを見て「おっ。やってるな。」と思うためでもない。

 

料理を上手に作るために見ているのだ。

 

料理番組を頼りにしているということは、自力では美味しい料理が作れないということを意味している。

つまり視聴者は適量もクソも全く判別がついていないのである。

 

自分の生み出す現代アートと食料の中間地点のような、カロリーを伴う物質(料理)に絶望しているからこそ。だからこそ料理番組を見ている。

 

藁をもすがる思いで料理番組を見た視聴者は絶望にたたき落される。

なぜなら、適・不適がわからないから。

 

自分の適が世間の不適で

自分の不適が世間の適で。

 

自分の認識と世間のそれとのギャップで苦しんでいる者に救いの手を差し伸べるふりをしてハイサヨウナラと裏切る。まさに鬼の所業。

人がやってはいけない行いである。

 

っていうのはオーバーだとしても、本当に気になっている。

レシピは曖昧さにあふれていて、ほかにも

 

あめ色になるまで、きつね色になるまで、しなってくるまで、ほどよい大きさ、etc…

 

レシピとはそもそも、だれが作っても同じものが出来上がるように料理工程を詳細に示した説明書のはずではないのか。

 

クックパッドを見てみる。

夜空に浮かぶ星々の数ほどたくさんのレシピが集約されているサービスである。

素敵すぎる比喩を使ってしまったのでバランスをとっておこう。

大きな石をどかしたときにいるアリの数くらいたくさんのレシピが集約されている。

 

私の大好物、牛肉を使ったレシピを見てみる。

シンプルで簡単!牛肉トマト

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実にうまそうだ。

これを作るには、私は何を用意すればいいのか。

材料を確認してみよう。

 

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はぅあっ!!

 

またしても「適量」の文字がある。

しかも、適量用意しなければいけないのはアサツキという謎の材料である。

もはやシンプルでも簡単でもない。

難解で迷宮入りである。

 

早朝、たまに月が見える時がある。

さわやかさの権化、早朝に加えて情緒のカタマリ月。

なんとも風情があるではないか。

朝に月を見ただけで一日を生きる活気が体の底から湧き上がってくる。

 

ちなみに、静岡県には「さわやか」という名のレストランがある。

だがその名前は罠だ。

さわやかに引き寄せられ、ふらふらと店内に立ち入ろうものなら店員の思うつぼ。

意気揚々とレモンスカッシュでも頼もうかとメニューを開いてみれば

ハンバーグ、ステーキ、ソーセージ、唐揚げ

の文字。

さわやかさと対極にあると言っても過言ではない。

 

話を戻す。

アサツキとは朝に見る月のことか。

多分違うけどそういうことにしておこう。

となると、アサツキを適量とは朝に月を適度に堪能してから料理をしましょうということ。

なんとも日本人情緒に訴えかけてくる表現だ。

月がきれいですね」で有名な夏目漱石チルドレンたる私としてはアサツキサイコーである。

 

アサツキを適量、今週も頑張っていきましょう。

もう年やわ~の大学生が気になる

あ~気になる。

気になることが尽きない。

なんでこんなややこしい性格に生まれてきたのか。

父と母を1:1の割合で恨むぞ。

 

最近気になったのはこれ。

大学生がよく言う

 

「もう年やわ~」

 

端的に何が気になるかというと

 

「そんなに年か?」

 

ってことである。

 

大学生の年齢はおおよそ18~22歳。

今の日本の平均寿命が80歳ぐらいであることを考えると

まだ人生の半分にも達していないケツの青いハナタレ小僧かつクソガキである。

そんな青二才が

「もう年やわ~」

 

気になるところしかない。

お前のどこが年なのか。

こんなことを言うやつの首根っこを掴んで老人ホームにぶち込んでやりたいと思う。

ガチ高齢者と口だけ高齢者のタイマンを組みたい。

まさにデスマッチである。

 

バッキバキの後期高齢者の前でもイキりハナタレ青二才小僧は

「もう年ですわ~」

なんてことが言えるのだろうか。

言えるとしたらソイツは正真正銘のサイコパスである。

 

「老い」というものは相対的なものだ。

ある二人以上の人間がいて、片方が他方よりも地球上に長く存在している場合、ソイツは「老いている」。

つまり


「年やわ~」

とビチグソにイキり倒しているクッソガキは、自分の狭い学生コミュニティーの中で自分が比較的年上になったことでいい気になっているだけである。

調子に乗るなよ青二才が。

 

井の中の蛙大海を知らず。

「年やわ~」と口走ってしまう、人生先取り気分ヤローにはぜひとも大海を知ってほしい。

井戸の中ではオールドかもしれないが、大海においてはヤングもヤング。

ヤングはヤングらしく、ナウい現状を楽しんでもらいたいものだ。

 

そういえば最近、夜更かしをすると次の日がめちゃくちゃきつい。

夜更かし癖があるので夜中の34時まで起きていることもザラにあるが、そんな次の日は決まって朝起きられない。

昼の12時過ぎまで寝てしまう。

しかも何がしんどいって、そんなに長く寝たのに体の疲れが全く取れていないどころか、かえってよりしんどくなっている気がする。

高校生の時分は1徹ぐらい平気でしていたのに。

 

もう年やわ~。


鬼ごっこが気になる

ごっこって全然鬼のごっごをしてないのが気になる

 

昔よくした鬼ごっこ。誰とでも一瞬で友達になれる最強ツールであり、プレイし始めた瞬間テンションがぶちあがる子供にとっての脱法ハーブおよびマリファナ

でも一つ気になることがある。鬼“ごっこ”って言ってる割に“ごっこ”してなくない?

 

仮面ライダーごっこをするとき、子供たちは徹頭徹尾仮面ライダーになりきることを目指す。変身ポーズから作中によく出てくるセリフ、必殺技まで全て完コピすることにすべての情熱を注ぎ、なんならこっちがオリジナルですけど?と言わんばかりに真似をする。

ところがどうだ。同じ“ごっこ”を関する鬼ごっこは全くと言っていいほど鬼を意識しない。鬼ごっこという名前は虚像と言わんばかりに無視を決め込む。意識しているのはより速く走れるフォームとターゲットとの距離の詰め方だけ。鬼の要素は全く忘れ去られている。ハリウッドザコシショウもびっくりの真似してなさ。もうちょい真似するべきじゃない?

 

そもそも“鬼”がぼんやりしすぎているのかもしれない。鬼のイメージがはっきりしないがために何を目指していいやらわからず、とりあえず走ることに全神経を注いでいるのかも。「鬼のふりをしながら一般市民に扮する友達を捕獲する」ことが鬼ごっこ本来の目的とするならば、前半部分(鬼のふりをしながら)の難易度が高すぎるがために後半部分(友達を捕獲する)でベストを尽くしてしまうということだ。何たるストイックさ。ただ俺は伝えたい。子供は子供らしく振舞えと。無邪気さを捨て去った子供なんて寺田心ひとりで十分やぞと。

 

本来の目的を取り戻すため、鬼の定義をしてみよう。

我々の多くはこどものころ昔話を通して鬼と接触を重ねてきているので、ある程度のイメージ共有ができるはずだ。

 

ところで秋田にはなまはげというゆるキャラの対極をいくようなストイックなキャラクターが存在する。なまはげに関する知識が浅いので何とも言えないが、まあ鬼みたいなもんだろう。秋田の子供たちは幼少期から幾度となくなまはげに遭遇している。なまはげは「悪い子はいねがー」、「泣ぐ子はいねがー」とか言いながら町内の民家に侵入し、災いを祓うらしい。が、子供からすればたまったもんじゃない。家でくつろいでいたら不意にヤバい見た目のやつが入ってくるなんて悪夢以外の何物でもない。それなのに災いを祓うというさも正義かのような体裁。俺なら憎しみ以外の感情を忘れ去る。

 

なまはげはさておき、鬼のイメージ。だいたいが縞々のパンツで頭もじゃもじゃ、角が1本か2本ほど映えている姿を想像するだろう。金棒でも持たせておけばほぼほぼ完成。だがここで我々は重大な問題を抱えていることに気づく。肌の色。

鬼は高確率で赤いタイプか青いタイプに分かれる。形容詞と名詞が一体化した赤鬼、青鬼という言葉の存在も鬼のステレオタイプが赤もしくは青に分かれていることを示唆している。

 

いや赤か青て。

 

夕食何がいい?→イタリアンか和食。

ぐらいどっちかに決め辛い。

 

でもよく考えたら赤にしろ青にしろ真似するときは肌の色まで再現できないので気にする必要ないわ。

 

ということで次回から鬼ごっこをする時は鬼のパンツともじゃもじゃカツラに角をはやして、こん棒振り回しながらやってください。

 

でももっとよく考えたら仮面ライダーごっこやる時も別にライダーベルトとか使わへんし、見た目にこだわる必要ないわ。

 

ということで各々が持つ鬼のイメージを忠実に再現し、ぼく/わたしは今鬼であると思いながら野原を駆け巡ってもらえればそれで充分です。