吉田美和が気になる
みなさんはドリカムの名曲「何度でも」をご存じだろうか。
ZARDの「負けないで」ぐらいテレビに重宝されている稀代の応援ソングである。
というかそもそも「名曲」の概念をご存じだろうか。
私はさすがに高学歴なので知っているが。
この曲が好きな人、多いんじゃないですかね。
ランニングの時に聞く曲リストとかに入れてるベタな人は相当数いるはずだ。
この曲の何がいいってやっぱり歌詞ですよね。
吉田美和が作詞したこの曲の歌詞はこれまで多くの日本人を励ましてきた。
「10000回だめで へとへとになっても 10001回目は何か変わるかもしれない」
しみますね。
なんかこう、グッときますよね。
こないだテレビで流れているのを聞いて、ああいい歌詞やなあと思っていた。
が、しかし。
いや10000回て~!!
い、10000回ダメって~!!!!
である。
今回の気になるポイントはここ。
この歌詞の親戚的存在に
「三度目の正直」
ということわざが存在する。
ことわざですら三回。
吉田美和ときたら10001回目まで頑張れよと発破をかけているのだ。
もはや厳しいとかスパルタとか言えるレベルをはるかに超えてしまっている。
どんな育ち方をすればこの域に到達するのだろうか。
星一徹に育てられたのかな。
歌詞をもう一度見てみよう。
「10000回だめで へとへとになっても 10001回目は何か変わるかもしれない」
野蛮。
10000回って。(笑)
もはや(笑)ですよこれは。
誰かを応援する側として、10000回まで挑戦してる姿を見てしまえばいけるとこまで行ってほしいと思ってしまうのかもしれないけど。
さすがにそんな何回も何回も同じことに挑戦している人に対して
「もうやめといたら?」
とは言えないのかもしれないけれども。
たぶん、5000回ぐらいからもう引っ込みがつかなくなっちゃったのかな。
何回やってもうまくいかず、もう半ばヤケクソなのかな。
端的に言って自暴自棄。
シンプルにかわいそうである。
周りの人も100回を超えたぐらいからドン引きしてると思うが、10000回までいかれたらさすがに応援せざるを得なくなりそうではある。
相手はひたむきに10000回失敗できる狂人である。
触らぬ神に祟りなし。
さらにこの歌詞で気になるのは
10001回目は
“何か変わるかもしれない”
の部分。
その応援のしかた何~!?
もはや成功するとは思えなくなってんじゃねーか。というね。
何か変わるかもしれないって。
いや何かって。
10000回失敗した人をもっかい頑張らせるための応援文句が
次は何か変わるかもしれへんやん!
鬼畜の所業である。
10001回目のモチベーションとしてそれはさすがにナメすぎな気がする。
何か変わるかもしれないからやってみよ~
は1ケタ台の挑戦数のときのやつである。
気持ちはわかる。
相手はすでに10000回失敗してるわけで、次の1回でうまくいく可能性は極めて低いのかもしれない。
でも、それでも、次はうまくいくよ!って言ってあげて~!!
諦めないで~!!
私が何かに打ち込むとしても10000回に耐えられる自信はない。
恐らく100数回目の時点でモチベーションのすべてを失い、1000回台に到達するころには自我を失っているだろう。
自我を失った私はもはや呼吸をしながらそれに挑戦する有機物に成り果て、悟りの境地に至る。
黒目がこの世の何よりも真っ黒になった私は宇宙と一体化し、ニルヴァーナへ。
仏陀もびっくりの悟りっぷりである。
悟りを開くかどうかなんてレベルでは収まらず、もはやガン開いているだろう。
パッカーーーーん
である。
つまり、ドリカムの「何度でも」を忠実に再現すれば悟りの境地に至れるということである。
なんとありがたいことか。
空海もびっくりな修行法。ダイナミック。
そういう意味ではJpop界のお経的存在と言えるだろう。
お経JPOPという新ジャンル。
お教界のニューウェーブ!(お笑い界のニューウェーブは陣内智則)
話が迷子になってしまったが、結論に向かおう。
アーティストというのは想像力に満ち満ちている。
おそらく吉田美和も、この歌詞を書く際
ひたむきに何かに打ち込む誰か
を明確に想像したはずだ。
そして想像はさらにドライブしていく。
そのひたむきな人が何かに10000回失敗したとすれば・・・?
大喜利の問題でありそう。
そこまで想像を膨らませた吉田美和はきっと考えた。
10000回失敗するようなヤベエ奴、本当はドン引きだけど応援せざるを得ない~。
でも次で成功するよ!なんて軽薄なことは言えないから、次のチャレンジで何か変わるかもって言っとこ~っと。
である。
恐らくこれぐらい思慮を巡らせて書いていたはず。
※勝手な想像です
想像力を存分に生かせば名曲を生み出せるかもしれないということ。
学校に乗り込んできたテロリストをせん滅するという妄想に中高生のとき取りつかれていた私には無限の可能性がある。