適量が気になる
昨日ツイッターでこのブログを公表したところ、数人の友人たちから反応があった。
全く読まれなければ寂しいくせに、実際に読まれていると思うとなかなか恥ずかしい。
あまり自分の考え方を口にする方ではないので、こういった形で自分が普段考えていることを世間に大っぴらにするのは少し抵抗があるのだ。
私からすればブログを見られることは、ケツを見られることと同じくらい恥ずかしい。
つまり私の中ではこういう等式が成り立つ。
ブログを見られること=ケツを見られること
高校数学にならってこの等式を(を見られること)でくくってみよう。
ブログ(を見られること)=ケツ(を見られること)
さらに両辺を共通項(を見られること)で割る。
ブログ=ケツ
ッッッッ!!!
驚きの結論が出た。
つまり、私にとってこのブログはケツなのである。
なんのこっちゃとお思いかもしれないが、等式がそれを証明してしまっている。
現実は実感と乖離していることがある。現実を受け入れよう。
このブログは私のケツです。
急にめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
だが、ここでめげてはいけない。
今年で23歳になるのだから。
これまでできなかったことにどんどん挑戦していく所存だ。
なので、もっともっとたくさんの人にこのブログを広め、見てもらいたい。
つまり、もっともっとたくさんの人に私のケツを見てもらいたい。
よく見てください。私のケツを。
さあ、遠慮なく。
みなさんは現在私のケツを見ている。
なんのこっちゃとお思いの方もいるかもしれないが、等式がそれを証明している。
現実は実感と乖離していることがある。
現実を受け止めよう。
私のケツを存分に愛でてください。
念のため申し上げるが、こんな風に育ってしまったのは私のせいではなく、両親のせいだ。
私は真っ当に生きてきたはずだが、真っ当とは時に狂気になりうる。
さあ、本題に移ろう。
ある昼下がり。大学の授業がなかった月曜日のこと。
家でダラダラとテレビを見ていると馴染みのあるテーマソングと共にキューピー3分クッキングが始まった。
あの狂気的なオープニングにはいつも釘づけにされる。
全裸のキューピーちゃんが突如としてテレビに現れ、軽快な音楽に合わせて腕を上げたりおろしたり、リズミカルに移動する。
何を見せられているのだろう。
まずそもそもキューピーちゃんはなぜ全裸なのか。
分からないことが多すぎる。
なんにせよキューピーちゃんの独壇場である。
キューピーちゃんがフロアを支配する。
キューピーちゃんが曲の最後に決めポーズをとれば、オーディエンスの我々もブチ上げ不可避といったところか。
キューピーちゃんの前座を受けていよいよクッキングがスタートする。
なるほど今回は「ズッキーニメンチ」なるものの作り方レクチャーのようだ。
料理家らしき女性が手際よくズッキーニを切ったりメンチをこねたりする傍ら、アナウンサーが材料を紹介していく。
ズッキーニが2本。合い挽き肉は300グラム。
作る気などさらさらない私だが、3分クッキングを視聴するものの矜持として材料を自分の中で反芻する。
ふむふむ。ズッキーニ2本に合い挽き肉は300グラムか。
次の瞬間、自分の耳を疑った。
アナウンサー「塩、こしょう少々と小麦粉、適量です。」
し、少々!?
て、て、適量!?
ココです。長らくお待たせしました。
気になることを取り上げて記事にするブログであることをお忘れかもしれません。
しかし、このブログは私のケツ鑑賞のためではなく、私が気になったことをつらつらと書き連ねるためのブログなわけです。
思い出せよ。趣旨を。
料理番組でよくある
少々
だの
適量
といった曖昧な言葉が気になる。
少々ってどこからどこまでが少々なのか。
5万歩譲って少々を許せたとしても
適量だけは許せない。
「適量」…ほどよい分量。適度の量。
番組プロデューサーは、なぜ人が料理番組を見るか理解しているのであろうか。
おばさんたちが手際よく料理をこなす様を鑑賞するためでも、もこみちがオリーブオイルを異常に使うさまを見て「おっ。やってるな。」と思うためでもない。
料理を上手に作るために見ているのだ。
料理番組を頼りにしているということは、自力では美味しい料理が作れないということを意味している。
つまり視聴者は適量もクソも全く判別がついていないのである。
自分の生み出す現代アートと食料の中間地点のような、カロリーを伴う物質(料理)に絶望しているからこそ。だからこそ料理番組を見ている。
藁をもすがる思いで料理番組を見た視聴者は絶望にたたき落される。
なぜなら、適・不適がわからないから。
自分の適が世間の不適で
自分の不適が世間の適で。
自分の認識と世間のそれとのギャップで苦しんでいる者に救いの手を差し伸べるふりをしてハイサヨウナラと裏切る。まさに鬼の所業。
人がやってはいけない行いである。
っていうのはオーバーだとしても、本当に気になっている。
レシピは曖昧さにあふれていて、ほかにも
あめ色になるまで、きつね色になるまで、しなってくるまで、ほどよい大きさ、etc…
レシピとはそもそも、だれが作っても同じものが出来上がるように料理工程を詳細に示した説明書のはずではないのか。
クックパッドを見てみる。
夜空に浮かぶ星々の数ほどたくさんのレシピが集約されているサービスである。
素敵すぎる比喩を使ってしまったのでバランスをとっておこう。
大きな石をどかしたときにいるアリの数くらいたくさんのレシピが集約されている。
私の大好物、牛肉を使ったレシピを見てみる。
シンプルで簡単!牛肉トマト
実にうまそうだ。
これを作るには、私は何を用意すればいいのか。
材料を確認してみよう。
はぅあっ!!
またしても「適量」の文字がある。
しかも、適量用意しなければいけないのはアサツキという謎の材料である。
もはやシンプルでも簡単でもない。
難解で迷宮入りである。
早朝、たまに月が見える時がある。
さわやかさの権化、早朝に加えて情緒のカタマリ月。
なんとも風情があるではないか。
朝に月を見ただけで一日を生きる活気が体の底から湧き上がってくる。
ちなみに、静岡県には「さわやか」という名のレストランがある。
だがその名前は罠だ。
さわやかに引き寄せられ、ふらふらと店内に立ち入ろうものなら店員の思うつぼ。
意気揚々とレモンスカッシュでも頼もうかとメニューを開いてみれば
ハンバーグ、ステーキ、ソーセージ、唐揚げ
の文字。
さわやかさと対極にあると言っても過言ではない。
話を戻す。
アサツキとは朝に見る月のことか。
多分違うけどそういうことにしておこう。
となると、アサツキを適量とは朝に月を適度に堪能してから料理をしましょうということ。
なんとも日本人情緒に訴えかけてくる表現だ。
「月がきれいですね」で有名な夏目漱石チルドレンたる私としてはアサツキサイコーである。
アサツキを適量、今週も頑張っていきましょう。